第251話 第六章「帰る練習」前編

「第一歩号で?」

「聞いてない」

屋根へ。

ザンバは板を持っている。

「次!」

「屋根の次は保守路」

「冒険!」

「決めていない」

「第一歩号!」

「船長が決めることではない」

「船長なのに!?」

「三番目を忘れたか」

「覚えてる!」

予定板へ戻る。

空白。

カナタは少しだけ不安になった。

帰れば、全員で次へ行くと思っていた。

言葉にしていない。

約束も。

それでも、同じだと思っていた。

「同じ船に乗ってないと、仲間じゃない?」

三脚群島でルゥに言われた言葉。

今度は自分へ返る。

「空白、嫌?」

アカリが訊く。

「少し」

「埋める?」

「まだ」

「逃げるため?」

「決めるため」

カナタは予定欄の下へ書く。

――次回確認、帰還式のあと。

「帰還式?」

「村長が言ってた!」

「内容、聞いた?」

「父ちゃんの道へ旗を立てる!」

アカリの顔から笑いが消える。

「誰が決めたの」

「村長とオウギとルゥの図!」

「ルゥは賛成?」

「……聞いてない」

「先に聞く」

「今度は分かってる!」

二人は機巧小屋へ戻った。

予定板には、冒険以外の欄も増えた。

――旅人宿の朝皿洗い。

――右膝の温石交換。

――文字練習、台座の説明板三行。

――帰還当番、二歩目。

「二歩目って仕事になるのか?」

「先頭を取らない仕事」とアカリ。

カナタは最初、空白へ《千声湖》と大きく書こうとした。けれど、ルゥの修理日、ナギの休聴日、ザンバの屋根当番を別々に確かめる。

「相談日は?」

「十日後」とルゥ。

「長い!」

「今の生活を十日やってから、次の生活を決める」

カナタは予定欄の十日間を指で追い、途中の文字を二つ読み違えた。聞き直し、直した字を消さず横へ書く。冒険へ出ない日も、空白ではなかった。

帰還式の設計図が、ルゥの新しい机へ広げられていた。

設計会議で、ルゥは最初に自分の限界を書いた。

継ぎ路、連続三十呼吸。左手首に痛みが出たらセノへ交代。片眼鏡を外したら遠方確認はフィオ。

ナギも書く。響路、同時五音まで。金属味、吐き気、左右の鈴の入れ替わりが出たら判定を二人へ分ける。

ザンバは機巧腕の温度と幻肢痛。アカリは眩暈と現在図の更新間隔。

「俺は!」

「右膝」と四人。

「助走!」

「記録名は右膝痛」とアカリ。

帰還式を誰か一人の英雄的な無理へ載せない。力だけでなく、止まる条件も分けて持つ工事だった。

帰還式は、カナタを祝うだけの式ではなかった。

アステルの《帰還路》を、次の形へ渡すための工事。

十年以上。

一人の命で村を支え。

帰る者の記憶を足場にし。

カゲノハ村へ道を引いた。

けれど、帰還者が増えた。

村も変わった。

一人の記憶と、一人の命へ重さを集める仕組みは限界に近い。

「白旗を、帰還広場の中央へ立てる」

ルゥが設計図を示す。

《未踏路》の一歩を、アステルの帰還路へ重ねる」

「父ちゃんと一緒!」

「最後まで聞く」

「おう!」

「白旗の周囲へ、村中の標旗をつなぐ」

鍛冶師。

薬師。

宿守。

機巧師。

配達人。

一人一歩ぶん。

「アステル一人が持ってた重さを、今いる人へ分ける」

「十番目!」

「似てる。でも、一つへまとめない」

「旗は俺が立てる!」

「最後まで!」

「聞いてる!」

ルゥは図の中央を指す。

白旗の紋。

無数の道が手を取り合う。

中央の空白。

「この空白へ、何を入れるか決めない」

「帰る場所!」

「入れない」

「なんで!」

「最後の一歩を、帰ってくる人へ残すから」

六番目。

向こうの一歩を空ける。

帰還門も、最後の一歩を作らない。

「白旗は、道を一歩手前まで出す旗になる」

「俺の《未踏路》は、着くまで出せる!」

「だから止めるの」

「弱くなる!」

「帰る人を引っ張らない」

ナギが設計図の横へ二つの鈴を置く。

黒。

現在。

「アステルの記録は、残す」

「声も?」

「記録として」

「父ちゃんに会える?」

誰もすぐ答えない。

カナタがルゥを見る。

「帰還路の中には、記憶像がある」

「父ちゃんの?」

「アステルが最後に残した道の記録」

「会える!」

「会話はできない」

「声は?」

「同じ記録」

「それでも!」

カナタの声が大きくなる。

村長が杖を置く。

「儂らも、アステルへ終わりを返していない」

「父ちゃんの道を終わらせる?」

「一人へ支えさせる役目を」

「父ちゃんがいなくなる?」

ルゥが答える。

「もういない」

分かっている。

天頂門で聞いた。

七番目で、終わりと消えることの違いを学んだ。

それでも胸が痛む。

「記録は残す」

アカリが言う。

「古い薬師橋と同じ?」

「歩けなくなる。でも、あったことは残る」

「父ちゃんの道、歩けなくなる」

「新しい帰還路を作る」

「俺の旗で」

「村中の旗で」とルゥ。

カナタ一人の道にしない。

アステルの代わりへ、息子一人を置かない。

理屈は分かる。

それでも、白旗を父の道へ重ねると聞いたとき。

カナタの胸には、別の願いが生まれていた。

帰還路の奥で。

父に、ただいまと言う。

父の声で、おかえりを聞く。

「やる」

カナタは白旗を握る。

「確認する」とナギ。

「何を?」

「目的」

「帰還路を次へ渡す!」

「ほか」

「父ちゃんに会う!」

「ほか」

「……おかえりって、言ってほしい」

部屋が静かになる。

ナギは帳面へ書いた。

――帰還式、目的二つ。

――仕組みの継承。

――カナタ個人、父の返事を希望。

ナギはその下へ、自分の偏りも書いた。

――判定者ナギ、固定声を現在応答へ誤認する可能性あり。対象が家族の声に似る場合、単独判定禁止。

「お前が聞き分けるんだろ」とカナタ。

「聞き分けたい。だから、一人で決めない」

黒鈴の記録確認はアカリ。波形の継ぎ目はルゥ。問いを変えた時の変化はナギ。三つのうち二つが一致して初めて現在応答へ分類する。

ザンバが危険欄へさらに書く。

――記録が望む言葉を返した場合、内容ではなく呼吸・時刻・問いへの変化を確認。

村長は「父の声を疑う式にするのか」と顔を曇らせた。

「疑うんじゃない」とアカリ。「記録を、記録のまま大切にする」

生きているふりをさせなければ、残された声は価値を失うわけではない。帰還式は、死者を黙らせる工事ではなく、現在の決定権を生者へ戻す工事になった。

「分けて書く?」

「同じにすると危ない」

「父ちゃんの返事も必要だ!」

「今の村の安全と、同じ条件へ入れない」

ザンバが壁から離れた。

「俺は反対だ」

「なんで!」

「アステルの道は、帰る者が望む形を足場にする」

「知ってる!」

「お前が望む父の返事まで、作るかもしれん」

「父ちゃんの声なら!」

「今の返事ではない」

ナギの言葉。

カナタは白旗の中央を見る。

金色の家が、また一瞬浮かぶ。

「記録かどうか、ナギが聞き分ける」

「聞き分けても、お前が選べるか」

「選ぶ!」

「誰の後ろを歩く」

「アカリ!」

「最後まで」

「最後まで!」

ザンバはそれ以上言わなかった。

反対を取り下げもしない。

設計図の端へ、自分の名を書く。

――危険、記憶像の固定。

――危険、帰還者の希望を現在の返事と誤認。

――監視、ザンバ。

「手伝うのか?」

「反対した者が外へ出れば、賛成だけが残る」

「九番目みたいだな!」

「お前が言うな」

帰還式は二日後。

それまでに、帰還路の点検。

記録と現在の分離。

村中の標旗の確認。

カナタは設計図を見る。

白旗。

父の道。

帰る者の最後の一歩。

中央の空白が、今までより狭く見えた。

マツバ婆は試験者へ温石を配りながら、自分の夫が帰らなかった日の道を話した。

「待つ者は、帰る者の好きな形へ家を保てばいいと思ってた。あたしもね」

左手の指を六から逆に折る。途中で一つ飛ばし、本人が笑った。

「年を取れば、数え間違いもする。昔を知ってる者が、今を一番よく知ってるとは限らないよ」

アカリが温石を一つ受け取る。祖母は守るあまり、病人の役目を取り上げることがある。アカリは石を受け取り、案内旗は渡さなかった。

家族の愛情も、帰路の命令権とは別だった。

帰還式の前日。

カナタは初めて、帰る練習を見た。

「帰るのに練習がいる?」

「第一歩号で証明した」とアカリ。

「着いた!」

「像を壊した」

「門は通った!」

「最後の一歩を船から跳んだ」

「格好よかった!」

「危なかった」

帰還門の前には、十人の試験者。

村を一度出た者。

天頂門へ仕事に行く者。

旅人宿へ移った者。

同じ村の中でも、帰る道は違う。

最初はマツバ婆だった。

杖。

薬師旗。

現在札。

「場所」

セルクが訊く。

「帰還門外側」

「時刻」

「二つ鐘」

「持ち主」

「マツバ」

「行き先」

「薬師渡りの家」

「返事」

「着いてから聞くよ」

五つ穴の現標板。

最後の一つを空ける。

帰還門が光った。

現れたのは、古い薬師橋。

枝蟲に食われる前。

手すり。

丈夫な板。

向こう側に、若い男が立っている。

マツバ婆の夫。

何十年も前に亡くなった。

「迎えに来たよ」

記憶の男が笑う。

声はない。

口の動きだけ。

婆の足が一歩出る。

「現在」

アカリが呼ぶ。

マツバ婆は止まる。

「分かってるよ」

「何が見える?」

「あの人」

「返事は?」

「してない」