第252話 第六章「帰る練習」後編
「記録」
ナギが黒い鈴を一つ鳴らす。
マツバ婆は古い夫を見る。
現在図を見る。
新しい薬師渡りは、右へ七歩。
「昔はまっすぐだった」
「今は家がある」とアカリ。
「誰の」
「去年、紫岸から来た家族」
現在の家の窓から、子どもが手を振る。
「じゃあ、右」
マツバ婆が自分で答える。
アカリは右へ一歩。
婆が二歩目。
金色の古い橋は消えない。
その横へ、黄緑の現在路が曲がる。
最後の一歩。
婆が踏む。
帰還門の内側へ。
小鐘が鳴る。
「帰ったよ」
薬師たちが答える。
「おかえり」
古い夫の姿は、門の向こうへ残る。
婆は振り返らない。
消したのではない。
今いる人へ返事をした。
「俺なら、父ちゃんへ行く」
カナタが呟く。
「今のを見て?」とルゥ。
「一歩だけ!」
「その一歩が最後」
「会ってから戻る!」
「道が戻すとは限らない」
次の試験者。
天頂門の保守人。
帰還門が見せたのは、事故前の作業所。
亡くなった仲間。
同じ工具。
同じ朝。
男は一歩出る。
アカリが現在を呼ぶ。
一度では止まらない。
「現在!」
二度目。
ナギが五つの返事を鳴らす。
今の作業所。
若い見習い。
残った仕事。
男はようやく振り向いた。
「戻りたい」
「どっちへ?」
アカリが訊く。
「昔へ」
「行く?」
「行けない」
「今へ来る?」
「……少し待つ」
アカリは急がせない。
帰還門の外で、男は昔の仲間を見る。
一刻。
仕事は止まる。
それでも待つ。
最後に男は、自分で現在図へ足を向けた。
「着く」
「受け取った」
帰還門へ入る。
今の見習いが、おかえりと言う。
男は泣いた。
カナタは声を出さなかった。
「帰る練習って」
しばらくして言う。
「昔を見ない練習?」
「違う」とアカリ。
「昔が見えても、今の行き先を決める練習」
「父ちゃんを見ても?」
「決めるのはカナタ」
「止めない?」
「現在は呼ぶ」
「大きく?」
「追い越さないくらい」
「難しい!」
「だから練習」
カナタは帰還門の一歩手前へ立った。
まだ入らない。
金色の奥に、父の影が見える気がした。
白旗が少しだけ引かれる。
「今日は見てるだけ」
自分へ言う。
足は、半歩出ていた。
アカリが無言で靴を踏む。
「痛い!」
「現在」
「ここ!」
一歩戻る。
練習は、まだ必要だった。
トウヤの門には、出発できなかった古い訓練枝が出た。
競争前と違う結びの靴紐を見て、本人は鼻で笑う。
「昔の俺なら、カナタを追う道を選ぶ」
「今は?」
「外枝救援の先頭。俺の隊で」
フィオには、誰かを救助するためだけの翼ではなく、自分が一人で飛びたい朝風路が現れた。肩の古傷が痛み、片翼を畳んでも、その道を消さない。
セノには、ルゥの留守を守る仮机ではなく、斜め留め具の名札がある現在の机。
帰りたい形は、過去の一番幸福な場面とは限らなかった。今やっと選べるようになった未来も、門の中へ混じる。
帰還門は、同じ人へ同じ村を見せなかった。
朝に通った者が、夕方もう一度入る。
今度は別の家。
子どものころに遊んだ枝。
初めて仕事を得た工房。
喧嘩して出たままの家。
帰りたい形は、一人の中にもいくつもある。
「門が迷ってる?」
カナタが訊く。
「帰る人が迷ってる」とルゥ。
「失礼だな!」
「あんたも」
「俺は村!」
「どの」
「全部!」
「それが一番危ない」
フィオが試験へ入った。
翼旗。
現在札。
「行き先、機巧小屋」
帰還門が見せたのは、ルゥが出発した日の作業小屋だった。
机は一台。
工具は整い。
フィオの風路図はない。
セノの留め具も。
見習い二人もいない。
広い。
「いいな」
フィオが言った。
「戻す?」
ルゥが訊く。
「少し」
「私も」
二人は昔の机を見る。
何も増えていない。
自分の場所が空いている。
戻れば、誰かへ場所を譲る必要がない。
「現在」
セノが機巧小屋から呼ぶ。
斜め留め具を落とした。
がん。
「また落とした!」
フィオが振り向く。
「今の返事?」とナギ。
「事故」とルゥ。
「現在!」
フィオは笑い、現在図へ一歩出た。
「机、狭いままでいい?」
「よくない」
「帰ったら変える?」
「今から」
「試験中!」
「あとで!」
二人は帰還門を出る。
昔の空いた机は、記録鈴の中へ残る。
次はトウヤ。
門が見せたのは、登枝士選抜試験の日。
誰より先へ飛び出した自分。
空中を踏む《昇標》。
歓声。
カナタが標杭を運んでいる。
「俺、速い!」
「今より?」とカナタ。
「今の俺はもっと速い!」
トウヤは昔の自分と競争しようとする。
「行き先、どこ!」
アカリが叫ぶ。
「先!」
「場所!」
「もっと先!」
「現在図にない!」
帰還門の道が、試験場から上へ伸びる。
昔のトウヤ。
今のトウヤ。
二人とも先頭を取ろうとする。
道が二つに裂けた。
「止まれ!」
セルクの声。
試験官の旗が現在路へ白杭を立てる。
「行き先を言えない者は、帰還路へ入るな!」
「昔と同じ!」とカナタ。
「お前もだ!」
トウヤは現在へ戻される。
「帰るのに、先を決める?」
「帰ったあとも道は続く」とセルク。
「帰る場所だけじゃ足りない?」
「着いたあとの自分を、昔へ置かないためだ」
カナタは予定欄の空白を思い出す。
次の冒険。
第一歩号。
仲間。
まだ決めていない。
「俺、帰還式に入っていい?」
初めて訊いた。
アカリは答える。
「今の行き先は?」
「帰還広場」
「着いたあと」
「……分からない」
「それでもいい」
「いいのか!」
「分からないって現在を言えるなら」
「未定!」
「次に決める人」
「俺と、みんな」
「記録」
ナギが響路帳へ書く。
帰還門の金色が、少しだけ落ち着いた。
決めたふりをしない空白。
白旗の中央と同じだった。
昇降籠を整備したのはセリだった。
高い音を聞き分けにくい日は、籠索へ指を当て、振動で摩耗を読む。腰の古い火傷が冷えると動きが遅くなるため、今日の点検距離を札へ書いていた。
「昔の逆さ滝を飛ぶより遅い」とカナタ。
「落ちた人を拾う時間まで入れれば、こっちが早い」
セリは籠の停止槌をカナタへ渡さず、アカリへ渡す。
「最後の一歩を踏む人と、止める人を同じにしない」
カナタは不満そうに籠へ乗ったが、途中で手を出さなかった。安全な道を退屈と呼ぶ癖も、少しずつ選び直していた。
帰還路の点検口は、天頂門の下にあった。
昔の逆さ滝。
今は横に階段と昇降籠がある。
「籠!」
カナタが喜ぶ。
「昔はなかった!」
「安全のため」とアカリ。
「逆さ滝を飛ぶほうが早い!」
「籠」
「最初に登った道!」
「帰還式の前日に事故を増やさない」
「少しだけ!」
「籠」
カナタは渋々、昇降籠へ乗った。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
アカリ。
五人。
籠の札が光る。
――四人乗り。
「一人多い!」
「前は一人足りなかった」とルゥ。
「成長!」
「規格外!」
カナタが降りようとする。
アカリが止める。
「案内役が降りたら意味ない」
「ザンバ!」
「俺は監視」
「ナギ!」
「記録と現在を分ける」
「ルゥ!」
「機巧」
「俺!」
「帰還者」
「全員必要!」
ルゥは銀鋲を籠の四隅へ打った。
「《継ぎ路》」
五人の足跡を、四人分の荷重へ分ける。
籠が軋む。
「気合い!」
「機巧に気合いを要求しない!」
昇降籠は上へ動いた。
途中、逆さ滝の裂け目が見える。
カナタとルゥが初めて空を駆けた場所。
今は風留杭。
休憩棚。
救助索。
セリが整えた格風路。
「安全になりすぎ!」
「いいこと!」
「冒険が減る!」
「死ぬ人も減る!」
「それはいい!」
天頂門の保守所。
オウギが待っていた。
点検口は、門の根元。
白い石板に、五つ穴の現標受け。
「アステルが作った試作品」
老人が言う。
「場所。時刻。持ち主。行き先」
「五つ目は返事!」
カナタが答える。
「覚えておったか」
「アカリに聞いた!」
「本人からではないのか」
「聞いたことも俺の道!」
「便利な言い方だ」
オウギは石板を外す。
その下に、細い光路。
金。
銀。
白。
何層もの道が、同じ穴へ重なっている。
「金は?」
カナタ。
「記憶」
「銀」
「現在の補助路」
「白」
「帰る者がまだ決めていない形」
「未来!」
「予測」
「同じ!」
「違う」
ザンバが灰旗の石突を穴へ当てる。
黒い点から三本の線が伸びた。
金。
銀。
白。
「帰還路の奥で、混じっている」
「分けられる?」
「入口では」
「奥は?」
「行かなければ分からん」
カナタは白旗を握る。
「行く!」
「点検」とルゥ。
「父ちゃん!」
「目的を混ぜない!」
ナギは響路帳を開く。
――現在地、天頂門点検口。
――行き先、帰還路中核手前。
――案内役、アカリ。
――帰還者、カナタ。
――機巧、ルゥ。
――響路、ナギ。
――監視、ザンバ。
――受取先、現在のカゲノハ村。
「返事」
アカリが村側の鐘を五回鳴らす。
遠い広場から、五つ返る。
セルク。
フィオ。
セノ。
村長。
第一歩号。
船は修理台から五つ叩いたらしい。
「船も!」
「現在」
点検口が開く。
冷たい風。
懐かしい鐘。
出発の日の光。
カナタは一歩出る。
アカリが肩を掴んだ。
「先頭」
「分かってる!」
「足が前」
「勢い!」
アカリが先に入る。
黄緑の旗。
カナタは二歩目。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
五人は、父の帰り道へ入った。