第253話 第七章「時間が道になる」前編
時間の道へ入ると、五人の身体は別々の時点へ引かれた。
カナタの右膝は、六歳の着地前の軽さへ戻ろうとする。ルゥの指からは継ぎ路の傷が消え、同時に今の銀鋲の重さも薄れる。ナギの耳には、まだ母の返事しか知らなかった八歳の鈴。ザンバの右肩には、失う前の腕の重さ。
「体が昔を正しいって言ってる」とルゥ。
「でも、今の痛みも俺たちの現在」とアカリ。
黄緑の旗は、傷を治さず、今の身体がいる方向を示した。過去の健康へ戻ることと、現在を助けることは同じではない。
帰還路の中では、時間が道になっていた。
一歩。
十年前のカゲノハ村。
もう一歩。
朝火を失った夜。
さらに一歩。
天頂門が開いた朝。
右を見ると、崩れかけた橋。
左には、同じ場所の新しい荷物路。
前には、まだないはずの旅人宿。
後ろには、カナタの小さな家。
全部、半透明。
全部、同じ場所へ重なっている。
「銀糸の上が今」
ルゥが一歩ごとに鋲を打つ。
「金は昔」
「白は?」
「まだ決めてない形」
「未来!」
「予測!」
「見たい!」
「触らない!」
カナタが白い道へ足を出す。
ルゥが襟を掴む。
「見るって言った!」
「足から行った!」
「見るのは目!」
「足のほうが近い!」
「何に!」
アカリは黄緑の線を現在図へつなぐ。
「配達先、現在のカゲノハ村」
細い。
記憶の金道より弱い。
それでも、今日の広場へ続く。
ナギは左右の鈴を鳴らす。
黒。
「記録」
白。
「未確認」
現在鈴。
「今」
同じ鐘の音でも、分けて置く。
道の脇に、一人の旅人が現れた。
半透明。
若いころの村長。
別の道には、幼いアカリ。
熱で眠っている。
さらに向こう。
出発の日のルゥ。
工具箱を抱え、第一歩号へ乗る前。
「私」
ルゥの足が止まる。
昔の自分は、作業小屋を振り返っている。
行くと決めた。
帰る日を自分で決めると言った。
「今、帰った」
ルゥが呟く。
昔の自分は聞かない。
記録。
同じ動きを繰り返す。
ザンバは別の道を見ていた。
天頂門。
開いた空。
アステルが村へ戻る前。
二人で世界の外へ一歩出る可能性。
白い予測路。
起きなかった未来。
「触らないで」
ルゥが言う。
「触れていない」
「見すぎ」
「目は自由だろ」
「足も動いてる」
ザンバの右足が白い道へ半歩出ていた。
自分で戻す。
「現在」
ナギの鈴。
ザンバは答えない。
灰旗の石突で銀糸を叩く。
ここ。
アカリが先へ進む。
道は、帰還路の中心へ近づくほど広くなる。
記憶が増える。
帰ってきた人の数。
帰れなかった人の数。
待った人の願い。
出た日の家。
戻りたい顔。
金色の道が重なり、一つの大きな村を作ろうとしている。
「同じカゲノハ村?」
カナタが訊く。
「全員、違う日」とアカリ。
「でも家は同じ!」
「住んでた人が違う」
「広場は!」
「祭りの日。事故の日。出発の日」
「一つにできない?」
十番目の旗。
違う雨を一つの同じ水にしない。
カナタは口を閉じる。
「並べる」
ルゥが白い帳面へ、見えた村を一頁ずつ描く。
「重ねない」
「全部、父ちゃんの道にある?」
「アステルの記憶だけじゃない」
帰る者が足した。
待つ者も。
十年以上。
一人の命でできた道へ、何百人もの故郷が積もった。
帰還路は、村を支えるだけではない。
帰りたい形を保存する巨大な記憶路になっている。
「帰還式で、全部出たら?」
ナギが訊く。
誰も答えない。
金色の道の奥。
一つ鐘が鳴った。
ごおん――。
出発の日の朝が、こちらへ近づいていた。
空いた小屋の机には、誰にも改造されなかった完璧な工具配置があった。
ルゥは片眼鏡をつけ、一本ずつ見た。傷がない。摩耗もない。セノの斜め留め具も、フィオの風路図もない。
左手を伸ばすと、継ぎ路の痛みまで消えた。
「欲しかった?」とカナタ。
「少し」
ルゥは正直に答えた。
「私の机が私のまま残ること。でも、誰も続きをしてない机は、私の仕事が届かなかった机でもある」
工具箱を三度叩き、何も取らずに閉じる。
「帰るのは、この小屋じゃない。私の名前が残って、ほかの人の手も入った今の机」
帰還路が、ルゥへ道を出した。
銀糸の横。
金色の細道。
作業小屋。
机は一台。
工具は全部、出発の日の位置。
ハルガはいない。
フィオも。
セノも。
誰も机を使っていない。
扉には、ルゥの名。
――航路機巧師見習い。
「見習い」
ルゥが眉を寄せる。
「昔だから」とカナタ。
「分かってる」
小屋の中に、もう一人のルゥがいる。
十五歳。
銀鋲を十本。
第一歩号へ乗るか迷っている。
『帰る日を、自分で決めたい』
記録の声。
「決めたよ」
今のルゥが答える。
昔の自分は聞かない。
『帰ったら、全部以前と同じにできるかな』
これは記録にない。
白迷海で見た幻の言葉。
帰還路が、ルゥの記憶から拾った。
「同じにしない」
ルゥは銀糸を強く握る。
金色の小屋には、自分の場所がある。
誰にも変えられていない。
帰れば、すぐ使える。
説明しなくていい。
譲らなくていい。
必要とされるのは自分一人。
「少し、入りたい」
ルゥが言った。
カナタが驚く。
「入る?」
「今の机を作ったばかり」
「戻る?」
「戻らない」
「入りたいのに?」
「見たい」
「同じ?」
「違う」
ルゥは金色の道へ一歩出る。
アカリが止めない。
「行き先?」
「昔の作業小屋」
「受取先?」
「昔の私」
「返事は?」
「ない」
「どこまで?」
「机に触るまで」
「現在へ戻る?」
「戻る」
条件を言葉にする。
ルゥは金色の小屋へ入る。
机へ手を置く。
高さ。
傷。
冷たい板。
「小さい」
今の自分には、一指低い。
道具箱も。
机も。
出発の日の体へ合っている。
ルゥは引き出しを開けた。
自分の名。
昔の字。
「残ってた」
笑う。
帰還路が小屋の扉を閉じ始める。
『ここなら、誰にも続きを変えられない』
記録にない声。
「それは、嫌」
ルゥは机から手を離す。
銀鋲を一本、金色の床へ打つ。
「《継ぎ路》」
昔の机と、今の新しい机。
一呼吸だけつなぐ。
違う高さ。
違う傷。
同じ人の二つの仕事場。
「持っていくのは、机じゃない」
昔の引き出しから、小さな木屑を一つ取る。
自分の名を削ったときの欠片。
記憶路の物は、本来持ち出せない。
木屑は入口で光になる。
ルゥの白い帳面へ、一本の線として残る。
「帰る」
自分で言う。
銀糸へ戻る。
金色の作業小屋は消えない。
記録として脇へ残る。
「終わった?」とカナタ。
「見終わった」
「おかえり?」
ルゥは少し考える。
「今の机に着いてから」
帰る言葉も、行き先ごとに違った。
両腕のある過去像を見た瞬間、ザンバの機巧腕が勝手に閉じた。
幻肢の指が、若いアステルの肩を止めようとする。生身の左手は、現在の灰旗を掴んだまま離さない。
「戻れば、切らなかったことにできる」
カナタの声が低い。
「できない」
ザンバは一度だけ喉を鳴らした。恐怖が強いと、親しい者の名を呼べなくなる。
「開かなかった門も、切った道も消さない。消せば、今の俺へ仕事を渡した人までいなくなる」
椅子の位置を半指ずらし、過去の門へ背を向けずに通り過ぎた。
次に帰還路が出したのは、天頂門だった。
十年前。
崩落が起きる前。
門は開いている。
向こうに世界の外。
星。
紫の空。
世界の果てへ続く未踏の道。
若いアステルが立っている。
隣に、両腕のあるザンバ。
「起きなかった道」
今のザンバが言う。
白い予測路。
記録ではない。
帰還路が、彼の願いから作った可能性。
若いアステルが笑い、門の向こうへ手を差し出す。
今のザンバの右腕が、包帯の下で痛む。
「父ちゃんがした?」
カナタが訊く。
「していない」
「でも、見えた」
「俺が見たかった」
ナギが白い鈴を置く。
「未確認の予測」
黒い記録鈴ではない。
現在でもない。
起きなかった選択。
若いザンバは門へ一歩出る。
アステルも。
崩落は起きない。
カゲノハ村も落ちない。
誰も選ばなくていい世界。
「便利だな」
ザンバの声に、皮肉がない。
「行く?」
カナタが訊く。
「行けば、戻らん」
「今の村へ?」
「ああ」
「帰る場所じゃないって」
「責任がある場所だ」
「違う?」
「帰る場所は、望む場所だけではない」
ザンバは白い予測路へ近づく。
若い自分。
失わなかった腕。
アステル。
憎まなかった十年。
村人に請求書を渡されない道。
「少し、入りたい?」
ルゥが訊く。
「ああ」
ザンバは認めた。
「入る?」
「入らん」
「どうして」
「受取人がいない」
若いアステルは、今のザンバを見ていない。
予測路の中の友。
望んだ形。
返事をする相手ではない。
ザンバは灰旗を振る。
「標術――《岐点》」
白い道の前へ黒い点。
一つは、門の向こう。
一つは、現在の銀糸。
「選ぶ」
灰旗の線が、現在へ向く。
白い予測路は消えない。
もう一つの道として、遠くへ残る。