第254話 第七章「時間が道になる」後編

歩かれなかった道。

それでも、自分が望んだことは消さない。

「帰るぞ」

ザンバが言う。

「どこへ?」とカナタ。

「請求書の続きへ」

「おかえりって言われてない!」

「必要ない」

「少しくらい!」

「お前は自分の心配をしろ」

ザンバの視線が先へ向く。

金色の道。

アステルの最後の記録が近い。

「お前の望む道は、俺のものより強い」

「父ちゃんだからな!」

「だから危険だ」

カナタは笑う。

「選べる!」

「今の顔で言うな」

「どんな顔!」

「昔へ走る顔だ」

アカリが黄緑の旗を持ち直す。

「先頭、私」

「分かってる!」

カナタは二歩目へ戻る。

足だけでなく、視線も戻るまで。

少し時間がかかった。

幼い自分の鈴が鳴った瞬間、ナギは右耳の栓を外しかけた。

母の声だけは、全部聞きたい。

その衝動を否定せず、舌先で五拍を数える。右手は問いの鈴、左手は黒い記録鈴。

『帰ってくる』

一拍目の前に息がない。二拍目と三拍目の間だけ、別の日の風音。近づくほど、声の継ぎ目が聞こえる。

「信じたい」

ナギは言った。

「だから、同じにしない。母さんの声。今の母さんの返事ではない」

冷静さは希望の反対ではなく、希望を聞き間違えないための技術だった。

帰還路は、ナギへトマリギ島を見せた。

「ここ、カゲノハ村の道じゃない」

カナタが驚く。

「帰る人の記憶を足場にするから」

ルゥが銀糸を調べる。

島の帰鐘塔。

七年前。

八歳のナギ。

母イオラが次標旗を持って出る日。

『帰ってくる』

記録の母が言う。

幼いナギが鈴を握る。

『待ってる』

今のナギは立ち止まった。

母は帰ってきた。

七年後。

同じ形ではなく。

同じ年齢でもなく。

今も、二人で七年分を話している途中。

「これは記録」

ナギは自分で黒い鈴を鳴らす。

次の音。

『ナギ』

今の母の声。

トマリギ島の現在鈴から。

『聞こえてる』

五日前に届いた返事。

「これは現在だった記録」

響路帳へ日付がある。

今この瞬間ではない。

でも、七年前の声とも違う。

「難しい!」とカナタ。

「だから書く」

さらに別の声。

『おかえり、ナギ』

母の声。

優しい。

ナギが一番聞きたい速さ。

黒い鈴は鳴らない。

現在鈴も。

「これは?」

アカリが訊く。

ナギは目を閉じる。

音の癖。

母の声。

けれど、息継ぎがない。

七年前の《帰ってくる》と、五日前の《聞こえてる》をつないで作った音。

「帰還路が作った」

「偽物?」とカナタ。

「声は本物からできてる」

「じゃあ本物!」

「今、言ってない」

「でも言うかもしれない!」

「そのとき聞く」

ナギは白い未確認鈴を鳴らす。

音は出さない。

帳面へ書く。

――母の声を合成。

――現在の返事ではない。

――帰還者の希望へ一致。

「父ちゃんも?」

カナタの声が小さくなる。

「まだ聞いてない」

「おかえりって言ったら」

「音を分ける」

「本物か決める?」

「今の返事かを決める」

「父ちゃんは今いない」

「うん」

「じゃあ、全部記録?」

「記録と、希望から作った音」

「どっちも父ちゃんの声」

「そう」

「聞いちゃだめ?」

「聞いていい」

ナギはカナタを見る。

「従うとは限らない」

ザンバが白迷海で言った言葉。

カナタは笑おうとする。

うまくいかない。

「俺、聞いたら行くかも」

「だから、今言った」

「止めて」

「現在は呼ぶ」

「大きく」

「返事があるぶん」

ナギは青い鈴を腰へ結ぶ。

トマリギ島の景色へ背を向ける。

「私は、母の声を聞いても、今はカゲノハ村へ戻る」

「帰る?」

「点検口へ」

「言葉が細かい!」

「行き先が違う」

ナギが現在鈴を五つ鳴らす。

カゲノハ村から返事。

『ここ』

アカリの声は隣にいる。

それでも、村側の鐘を通した現在の返事。

「響路、正常」

ナギは記録する。

帰還路の奥で、金色の光が一度だけ脈打った。

父の姿がいるはずの方角に、カナタの名札と同じ輪郭が浮かぶ。

アステルが生前に残した固定記録にはない動きだった。

 だから、父が今ここで答えた証拠にはならない。

 帰還路が、残された記録とカナタの記憶を組み合わせた可能性がある。

ナギの顔が変わる。

「止まって」

全員の足が止まった。

「今の、記録にない」

カナタの白旗が、強く金色へ引かれた。

父の姿へ近づくほど、カナタは呼吸の不自然さに気づいた。

赤い上着の袖が揺れる前に風音が鳴る。口が閉じたあとで息が続く。笑い声の最後だけ、村人が記憶していた別の日のアステルだった。

「父ちゃん」

声が低い。右足が半歩出る。

白旗の中央を握らず、端をつまむ。

「俺が今、何歳か分かるか」

『おかえり』

「第一歩号の翼、いくつになった」

『おかえり』

問いへ答えないことが、父を偽物にするわけではない。残された本物の記録が、現在の父ではないと示していた。

道の奥に、天頂門があった。

現実の門ではない。

アステルが最後に旗を打ち込んだ瞬間。

崩れる大枝。

遠いカゲノハ村。

若いザンバ。

光になる道。

その中心に、父が立っている。

ぼさぼさの黒髪。

擦り切れた赤い上着。

カナタより少し背が高い。

出発の日より、疲れた顔。

「父ちゃん」

アステルが振り向く。

今までの記録では、振り向かなかった。

最後の行動。

村へ道を作る。

笑う。

それだけを繰り返していた。

今はカナタを見ている。

口は動かない。

「俺だ!」

カナタが一歩出る。

アカリの手が肩へ。

「現在」

「見てる!」

「何が」

「父ちゃん!」

「返事は」

「こっちを見た!」

ナギが首を振る。

「記録にない動き」

「新しい反応!」

「帰還路が作った可能性」

「父ちゃんが残したかもしれない!」

「かもしれない」

「じゃあ聞く!」

アステルが手を伸ばす。

あと一歩。

カナタの白旗が、その足元へ光板を作る。

未踏路。

誰も命じていない。

旗が自分で、父までの最後の一歩を出した。

「カナタ!」

ルゥが銀鋲を投げる。

光板と現在の銀糸をつなぐ。

「一歩だけ!」

カナタが叫ぶ。

「何をしに!」

「ただいまって!」

「受取先は!」

「父ちゃん!」

「返事は今じゃない!」

「声がある!」

アステルの口が動く。

『おかえり』

音が帰還路へ広がった。

カナタの全身が止まる。

十年以上。

聞きたかった。

父が村を捨てたと思われても。

死んだと知っても。

道として帰ったと分かっても。

それでも、一度。

自分へ。

「父ちゃん」

光板へ足を乗せる。

ナギが黒い鈴を鳴らさない。

現在鈴も。

白い未確認鈴を強く握る。

「音は、アステルの声」

「じゃあ!」

「でも、記録にない切り方」

「新しい!」

「息がない」

ナギの声が震える。

《行ってこい》の『お』」

過去の記録。

《帰れ》の『かえ』」

別の記録。

「笑った息の『り』」

三つをつないだ。

帰還路が、カナタの望む返事を作った。

「本物の声だ!」

「本物から作った、今は言ってない言葉」

「父ちゃんは言いたかった!」

「分からない」

「絶対!」

「決めないで」

アカリの言葉。

カナタの足が光板の中央へ進む。

父の手。

あと半歩。

触れれば、帰還路は完成する。

出発した日の息子。

帰れなかった父。

二人が、望んだ形で再会する。

今の村は遠くなる。

「カナタ!」

ルゥ。

「現在!」

ナギ。

「先頭!」

アカリ。

「選べ」

ザンバ。

声が届く。

父の《おかえり》より小さい。

ばらばら。

今の呼吸。

カナタはアステルの手を見る。

「一歩だけ」

まだ言う。

「それで、何へ帰る」

ザンバが問う。

「父ちゃんへ!」

「父は場所か」

「道!」

「今の道か」

カナタの口が止まる。

アステルの手は、同じ位置。

返事はもう一度鳴る。

『おかえり』

同じ速さ。

同じ音。

記録。

今の返事ではない。

カナタの目から涙が落ちる。

「聞きたかった」

「うん」とルゥ。

「今も聞きたい」

「うん」

「少し、行きたい」

「うん」

「でも」

カナタは後ろを見る。

アカリの黄緑の旗。

ルゥの銀糸。

ナギの三つの鈴。

ザンバの灰旗。

今の自分。

「先頭は、アカリ」

「受け取った」

アカリが現在路へ一歩出る。

カナタは父へ向けた足を上げる。

戻す。

二歩目へ。

その瞬間。

白旗から金色の一歩が剥がれた。

父の足元へ残る。

カナタの標力。

一歩ぶん。

アステルの記録が、それを掴んだ。

帰還路全体が大きく揺れる。

「何した!」

「戻った!」

「旗が置いていった!」

金色の一歩が、父の胸へ入る。

空白だった場所。

帰還路の中核。

何千もの故郷が、一斉にカナタの白旗へ向いた。

『帰ってこい』

声が重なる。

父。

村人。

帰れなかった者。

待った者。

白旗の中央へ、出発した日のカゲノハ村が描かれ始めた。

「戻る!」

ルゥが銀糸を引く。

「今の村へ!」

アカリが黄緑の道を開く。

五人は走った。

後ろで、アステルの姿がもう一度口を動かす。

『おかえり』

合成された返事。

カナタは振り返らなかった。

でも、聞いたことは消さなかった。