第255話 第八章「昔のままの朝」前編
細道へ入る前、五人は限界を声にした。
「継ぎ路、あと十八呼吸」とルゥ。銀鋲を一本セノの受け板へ預ける。
「同時音、四つ。金属味あり」とナギ。判定をアカリと二人へ分ける。
「機巧腕、熱い。切断は左の返事を待つ」とザンバ。
「眩暈、一度。案内は続ける。現在図の更新、次はカナタ」とアカリ。
「右膝、痛い。走れる!」
「走らない」と四人。
カナタは笑い、右足を後ろへ戻した。
力を出し切ることではなく、弱くなる場所を先に渡すことが、今の村へ続く道を太くした。
帰還路が崩れ始めた。
金色の家々が膨らむ。
出発の日。
祭りの日。
事故の前。
帰る者が望んだ何百もの故郷が、同じ道へ押し出される。
銀色の現在路は細い。
アカリの黄緑線は、さらに細い。
「配達先、現在のカゲノハ村!」
旗を向ける。
道は一歩ぶん。
次。
その次。
アカリの標術は、カナタのように道を作れない。
宛先を示すだけ。
足場は帰還路の現在線。
「銀糸、あと七本!」
ルゥが鋲を打つ。
一本目。
カナタ。
二本目。
ナギ。
三本目。
ザンバ。
四本目。
アカリ。
五本目。
現在図。
六本目。
点検口。
七本目。
第一歩号の五つの返事。
遠い村側から、船底の音。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「船までつないだ!」
「帰る場所にいる!」
ナギは鈴を鳴らし続ける。
「記録!」
左。
「未確認!」
白。
「現在!」
右。
金色の声が重なる。
『おかえり』
『帰ってこい』
『昔のままで待っている』
「最後は誰の声!」
カナタが訊く。
「村人の願いをつないだ音!」
「本物?」
「願ったことは本物!」
「今の返事?」
「違う!」
ナギが大声で分ける。
願いを偽物にしない。
現在と同じにもしない。
ザンバの灰旗が黒い点を置く。
「《岐点》!」
金色の道と銀色の道が分かれる。
昔へ。
今へ。
帰還路はすぐ二つを重ね直そうとする。
ザンバが旗竿を両手で持つ。
「長くは保たん」
「十分!」
「何呼吸だ」
「着くまで!」
「数字を言え!」
「十!」
「根拠は!」
「十番目!」
「ない!」
アカリが先頭。
銀糸の上を走る。
カナタは二歩目。
追い越しそうになる。
「遅い!」
「今の道幅!」
「後ろから金の家が来る!」
「追い越さない!」
「分かってる!」
三歩目で横へ出る。
アカリが配達箱で腹を押す。
「後ろ!」
「痛い!」
「現在!」
「ここ!」
ルゥの銀糸が一本切れる。
金色の広場が横から重なる。
昔のカナタの家。
現在の旅人宿。
同じ場所。
両方が互いを押し潰そうとする。
「次稿!」
ルゥが灰青色の四番旗を抜く。
持ち歩く小さな写し。
「今は保存だけ!」
昔の家を薄い図面へ変える。
現在の宿は残る。
金色の家が一頁ぶん軽くなった。
「帰還式の前に全部使う気か!」
カナタが叫ぶ。
「今使わないと帰れない!」
次。
古い薬師橋。
アカリが暮色の七番旗を掲げる。
「終了記録、受取済み!」
橋は歩ける形から、記録板へ変わる。
今の薬師渡りが下から現れる。
「俺の道が!」
「残ってる!」
橋板一枚。
丸い傷。
カナタは見て、走る。
点検口の光が前に見えた。
あと十歩。
九。
八。
金色の帰還路が後ろから一つの大きな家へまとまる。
カナタの白旗を入れる空白。
「旗を取られる!」
白旗が後ろへ引かれる。
ルゥの銀糸が腕へ巻く。
ナギの鈴が現在を鳴らす。
ザンバの岐点が軋む。
アカリは止まらない。
「先頭!」
「アカリ!」
「二歩目!」
「俺!」
「行き先!」
「今のカゲノハ村!」
「受取先!」
「今いる人!」
「返事!」
点検口の向こうから五つ。
「ここ!」
全員が最後の一歩を踏む。
点検口から外へ転がった。
天頂門の床。
今の石。
今の風。
今の痛み。
「着いた!」
カナタが顔を上げる。
アカリがすぐ訂正する。
「点検口」
「村の中!」
後ろで、帰還路が閉じない。
金色の光が点検口から溢れた。
出発の日の鐘。
一つ鐘。
ごおん――。
音が終わらない。
余韻が伸び。
戻り。
もう一度、最初から鳴る。
ごおん――。
「朝が」
アカリが顔を上げる。
「始まり続けてる」
獣が姿を取る前から、匂いが来た。
カナタには、古い家の乾いた木と父の赤い上着。
ルゥには、油を差したばかりの一人用の机。
ザンバには、黒旗隊の野営火と失う前の右手の革手袋。
アカリには、熱を出した寝台の冷却布。
ナギだけには故郷の匂いがなく、代わりに誰かが用意した「懐かしいはずのパン」の甘さが来た。
地面の足跡は前へ浅く、後ろへ深い。進むほど過去へ沈み、戻る方向だけが重くなる。
古い戸口が一つ開く。次に別の家の戸口。どれにも入らず、内側から同じ《おかえり》を継ぎ直す。
完全に静止した時、ザンバが灰旗を上げた。
「止まったんじゃない。昔の名で誰かが返事をするのを待っている」
天頂門の外は夜だった。
門の向こうには、外海。
星根。
遠い双灯樹。
けれど、足元のカゲノハ村だけが朝と夜を繰り返していた。
一つ鐘。
枝葉が開く。
朝の光が広場へ落ちる。
一呼吸後。
葉が閉じる。
暗くなる。
もう一度。
一つ鐘。
同じ鳥が枝を横切る。
同じ朝露が落ちる。
同じ子どもが広場を走り出し。
一歩目へ戻る。
「帰還式が始まってる!」
アカリが階段へ走る。
「二つ鐘は明日!」
「誰かが前倒しした?」
ルゥが銀糸を点検口へ残す。
帰還路から金色の標力が逆流している。
カナタの白旗から剥がれた一歩。
アステルの中核。
村人たちが準備した帰還式の旗索。
三つが、時間より先につながった。
「俺のせい?」
「一歩を置いたのは」とルゥ。
「戻ったら抜けた!」
「帰還路が取った!」
「じゃあ道のせい!」
「半分」
「残り!」
「帰還式の準備を止めなかった村」
ザンバが言う。
「全員」
カナタ一人の間違いではない。
村人たちも、帰ってくる英雄へ昔の故郷を用意しようとした。
白旗をアステルの道へ重ねれば。
父の帰還路も。
息子の未踏路も。
村の願いも。
一つの大きな「帰ってこい」になる。
「止める!」
五人は階段を駆け下りる。
昇降籠を待たない。
「逆さ滝!」
「今はいい!」とアカリ。
「許可!」
カナタが喜ぶ。
「急いで!」
白旗を空へ突く。
「《未踏路》! 広場まで!」
一歩。
二歩。
光板が逆さ滝の風へ乗る。
ルゥが銀糸でつなぐ。
ナギが現在鈴を鳴らす。
ザンバが分岐を作る。
アカリが黄緑の行き先を示す。
五人は空を下る。
昔、カナタとルゥが命懸けで登った道。
今は休憩棚。
風留杭。
それらが一つ鐘のたび、古い形へ戻りかける。
安全索が消える。
階段が消える。
次の朝で戻る。
また消える。
「今の設備を固定!」
ルゥが銀鋲を打つ。
「《継ぎ路》!」
現在の休憩棚を、今の枝へ縫い止める。
昔の逆さ滝が重なる。
風が強い。
カナタの光板を上へ押す。
「下へ行くのに上へ!」
「昔と同じ!」
「帰る道が出発の向きになってる!」
一つ鐘。
ごおん――。
広場が見える。
帰還式の円。
白い布。
金色の旗索。
村人たちは、同じ動きを繰り返している。
村長が杖を上げる。
旗索を結ぶ。
一呼吸後。
最初へ戻る。
また杖を上げる。
「止まって!」
アカリの声は届かない。
帰還路の朝へ閉じ込められている。
英雄像だけが、世界の果てを指したまま動かない。
その足元。
白旗を立てるはずだった中央の空白から、金色の家が生えていた。
一軒。
十軒。
百。
出発した日のカゲノハ村。
誰かが帰りたかった家。
重なり。
山のように膨らむ。
家々の間から、巨大な目が開いた。
門の形をした口。
何百本もの脚。
脚の先は、全部「最初の一歩」。
額には、アステルの顔。
胸には、カナタの白旗から剥がれた金色の一歩。
ザンバが灰旗を抜いた。
「標災」
「何だ!」
「《原郷獣モトノママ》」
獣が一歩を踏んだ。
どおん――。
カゲノハ村の新しい旅人宿が、カナタの昔の家へ戻り始めた。
モトノママは目で家を選んでいなかった。
旗の位置。帰還路の金色。鐘の間隔。誰かが昔の呼び名へ振り向いた瞬間。その関係だけを感じ取り、最も強い過去像を体へ貼りつける。
アカリの寝台が現れると、マツバ婆が昔の呼び方で名を呼びかけた。
「アカ――」
途中で止め、現在の名を同じ声で言い直す。
「アカリ。十五歳。案内役。今、ここ」
獣の皮膚に貼りついた古い薬箱が一枚ひび割れた。
悪意で病人へ戻しているのではない。変化した姿を痛みとみなし、痛む前の完成形へ重ねようとしている。だからこそ、優しく見える働きが現在を消した。
原郷獣モトノママが二歩目を踏んだ。
どおん――。
旅人宿の二階が消えた。
食堂が縮む。
受付台は、アステルとカナタが使った食卓へ戻る。
紫岸の家族が座っていた椅子ごと、半透明になる。
「待って!」
アカリが黄緑の旗を向ける。
「そこに人がいる!」
モトノママの門の口が開く。
『出発の日には、いなかった』