第256話 第八章「昔のままの朝」後編

「今いる!」

『故郷を、元の形へ』

新しい家が消える。

荷下ろし台が古い石畳へ。

四本の桟橋が一本へ。

帰還門の外輪が、昔の柵へ戻る。

その柵は、第一歩号が出航日に折った形だった。

「直す前まで戻すのか!」

カナタが叫ぶ。

「元って、いつだ!」

獣は答えない。

カナタが最も強く覚えている日。

十五歳の出発。

父の道を知った朝。

村中から見送られた日。

その形へ、現在を押し込む。

一つ鐘。

ごおん――。

アカリの背が縮み始めた。

「何だ!?」

黄緑の旗が紙の白旗へ戻る。

配達袋は、薬箱だけに。

十五歳の少女が、十三歳の病人へ。

頬が赤くなる。

膝が折れた。

「アカリ!」

カナタが支える。

「大丈夫」

声が弱い。

「熱が戻った?」

「出発の日の私じゃない」

モトノママは、カナタが村を出る前のアカリを十分知らない。

熱を出した朝。

薬を待つ子ども。

その形を、帰る場所の一部として選んだ。

「私は、待ってるだけじゃない!」

アカリは薬箱を床へ叩く。

五つ。

こん。

弱い。

それでも現在の返事。

ナギの鈴が受け取る。

「アカリ、現在!」

黄緑の旗が一瞬戻る。

次の一つ鐘で、また紙へ。

ルゥの工具帯から銀鋲が減っていく。

十二本。

十本。

出発の日の数。

白い帳面が消え、古い工具箱だけになる。

「私の旅を戻さないで!」

銀鋲を自分の腕へ打つ。

《継ぎ路》! 今の私を、今の机へ!」

機巧小屋から、新しい机の銀糸。

フィオ。

セノ。

ハルガ。

三人の現在がルゥへ返る。

髪の鋲が十二本へ戻る。

「一人じゃ保てない!」

ザンバの灰旗は、端から黒くなっていた。

村人が覚えている姿。

黒旗。

敵。

道を切る男。

灰色の十本線が消え、真っ二つの羅針盤が浮かぶ。

「戻った!」

カナタが言う。

「戻されている」

ザンバは黒くなる布を握る。

右腕の金糸まで消えかける。

ルゥが縫った跡。

旅の現在。

「切るな!」

少年の声が屋根から飛ぶ。

弁償板の子。

「灰色の旗にして!」

「俺が決める」

ザンバは黒旗を自分の膝へ押しつける。

折ろうとする。

「壊すな!」

カナタが止める。

「灰色の道、残ってる!」

「どこに」

「請求書!」

外套の内側。

名前入りの板。

ザンバ。

現在状況。

今いる者として数えられた記録。

黒旗の中へ、細い灰線が一本戻る。

ナギは、さらに薄くなっていた。

「ナギ!」

「出発の日の村に、私はいない」

体の向こうが透ける。

青い鈴だけが空へ浮く。

連標網も。

トマリギ島の道も。

カナタが出た日のカゲノハ村には存在しなかった。

「帰る場所へ、後から来た人は入れないのか!」

『元の形に、余りはない』

声の前半は十番旗の記録。後半は村長の演説。息継ぎだけがアステルだった。三人の声は同じ肺から出ていない。

ナギは吐き気をこらえ、黒鈴を鳴らした。

「合成。今の返事なし」

モトノママの口。

十番目の旗が歪んだ言葉。

「余りじゃない!」

カナタは白旗を振る。

「ナギの足元!」

一歩分の光板。

ナギの透けた足を支える。

だが、光板も出発の日の白旗へ戻される。

紋のない空白。

未踏路が消えた。

「俺の旗まで!」

モトノママが三歩目。

一つ鐘。

カナタの体が十五歳へ戻ろうとする。

傷が消える。

字を覚えた指の癖が消える。

世界の果てを見た目から、迷いが消える。

英雄像と同じ顔。

前だけを見る少年。

『道がないなら、最初の一歩になればいい』

自分の声。

間違ってはいない。

けれど、そのあと覚えた九本の旗がない。

「道は!」

カナタは白旗を両手で持つ。

「一歩だけじゃない!」

紋のない布へ、金色の細線が一本戻る。

誰かの返事。

今いる者の声が必要だった。

モトノママの体は、見る者ごとに同じ形ではなかった。

正面のカナタには父の顔。右から見るルゥには、誰にも触られなかった机。後ろのザンバには、両腕で立つ自分。アカリには、配達へ出なくてよかった病床。ナギには、借り物の故郷だけが空洞の戸口になっている。

複数の村人が同じ昔の広場を望むと、ばらばらの鱗が滑らかな一軒家へそろい、声の継ぎ目も聞こえにくくなった。獣にとっては快い状態らしい。

「同じ懐かしさを餌に、形を固める」とルゥ。

「なら、昔を嫌えばいい?」とカナタ。

「違う」とアカリ。「昔を記録へ置いて、今の命令にしない」

捨てるのではなく、足を引く力だけを終わらせる。

帰還広場には、十本の旗の写しが並べられていた。

帰還式のため。

白。

銅。

灰青。

夜色。

透明。

暮色。

薄青。

深緑。

空色。

二番目の青旗だけは、遠いトマリギ島。

代わりに、響路鈴が一本。

モトノママの何百本もの脚が、旗の写しへ伸びる。

最初に空色。

十個の雫が、一つの大きな家へ潰れる。

『十の道を、一つの故郷へ』

《繰上》は、潰す力じゃない!」

アマネの遠い声が連標網から響く。

空色旗は獣の背へ埋まった。

次に深緑。

九つの矢印が、すべて出発の日へ曲がる。

『戻るなら、最初まで』

「間違えた場所まで!」

シノの声。

深緑旗は獣の喉へ。

薄青。

八つの足跡が、一つの巨大な足跡へ重なる。

『帰る者は、昔の自分を先頭に』

「先頭は替わる!」

メグ。

暮色。

七つの灯が消えない輪になる。

『出発の日を、終わらせない』

「終わるから、残せる!」

ヨイ。

透明。

六つの弧が内側へ閉じる。

『故郷の外を、入れない』

「迎える一歩を空けて!」

ユラとエル。

夜色。

五つの点が、昔いた人だけを数える。

『今いる者は、出発の日の者』

「今を返して!」

リラ。

灰青。

町の原図が、出発の日の形へ固定される。

『正しい故郷へ戻す』

「次稿は、今の形から続ける!」

キリ。

銅。

三本の道が、同じ昔の広場へ集められる。

『別れた者も、同じ家へ』

「再会は、同じ場所へ住むことじゃない!」

ミオ。

最後に、トマリギ島の青い響路。

帰還路が遠い二番旗を引こうとする。

青い旗は動かない。

始標塔へ立ったまま。

ナギの鈴だけが強く鳴る。

『すべての帰る場所を、一つへ』

「帰る場所は、持ち歩かない!」

イオラとナギの声。

青い道は切れない。

けれど、獣の門の口に大きな《帰》の文字が浮かぶ。

「十本の旗を食った!」

カナタが白旗を構える。

「取り返す!」

「待って!」

ルゥが止める。

「未踏路で近づいたら、最初の旗まで食われる!」

「じゃあ走る!」

カナタは石畳を蹴る。

今の石畳。

次の一つ鐘で、昔の広場へ戻る。

足元が消えた。

落ちる。

アカリが薬箱の紐を投げる。

「配達先、こっち!」

黄緑の線へカナタが掴まる。

モトノママの脚が振り下ろされた。

ザンバが黒くなりかけた旗を振る。

《岐点》!」

脚の落下路を二つへ分ける。

一つは昔の広場。

一つは現在の荷下ろし台。

獣は両方へ脚を増やす。

「分けたら増えた!」

「すべてを元へ戻す獣だ」

ルゥが銀鋲を投げる。

《継ぎ路》!」

現在の家と現在の地面を縫う。

モトノママが一つ鐘を鳴らす。

銀糸が、出発の日の継ぎ目へ戻される。

「私の糸まで原図に!」

ナギが響路を開く。

「全結節、現在返事!」

十の町から声が来る。

モトノママの門の口が、全部を《おかえり》へ変えようとする。

違う言葉。

違う現在。

一つへ潰される。

『おかえり』

何百の声が、同じ音になる。

「気持ち悪い」

ナギが言った。

「全員、同じ声じゃない」

モトノママがカナタへ顔を向ける。

額のアステルが笑う。

『おかえり』

カナタの足が止まる。

「それは父ちゃんじゃない!」

言えた。

獣の笑顔が少し歪む。

『声は同じ』

「今の返事じゃない!」

ナギの言葉を、自分で言う。

『では、誰が返事をする』

カナタは周囲を見る。

村人たちは一つ鐘の輪へ捕らわれている。

昔の動きを繰り返す。

新しく来た旅人は薄くなる。

ナギも。

今いる声が、数えられていない。

「今いるやつを数える!」

夜色の旗は、モトノママの胸にある。

五つの白い点。

昔の村人だけを数えて光っている。

「返事があるやつを、一人も消さない!」

カナタは獣の胸へ向かった。

獣は追わなかった。

完全に静止し、胸の古い戸口を半分だけ開ける。待っている。カナタが「父ちゃん」と返せば父の形を濃くし、村人が昔の名へ振り向けば、その家を体へ増やすために。

喉の奥では、何百もの《おかえり》が同じ長さへ切りそろえられていた。声の主を理解しているのではない。標力の強い音を餌のように集め、矛盾する記憶を一つの完成した故郷へ圧縮する。

足元の鱗は、現在図へ触れると冷え、古い地図へ触れると温かくなる。ルゥは銀鋲で温度差を測り、ナギは鳴らさず記録した。

「昔を見たら強くなる?」とカナタ。

「昔を見るだけじゃない」とアカリ。「昔だけが本当だって返事をそろえた時」

カナタは父の顔を見たまま、現在の仲間の名を一人ずつ呼んだ。戸口は開かなかった。