第257話 第九章「十三か所の崩落」前編
ナギの点呼は、声が出る者だけで終わらなかった。
キヌ婆は鍵束を二度。ソウは木槌を五回。ツヅラは帰還縄を三度触ってから、自分の名を一度。紫岸の宿客は表と裏の食器を別々に鳴らす。
セノは銅杭を六本ではなく五本だけ鳴らした。飾りの一本まで返事へ数えないためだ。
返事の方法が違うほど、モトノママの滑らかな家肌へ細い亀裂が増えた。現在の名と現在の動作は、一枚の理想の故郷へ重ならない。
カナタは全員を「村人」でまとめず、聞こえた名を一人ずつ復唱した。読めない札は、本人へ聞いた。
「全員、返事!」
ナギが五つの音を送る。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
今、ここ。
最初に返したのは、アカリ。
薬箱を五つ。
「帰還広場!」
次にルゥ。
銀鋲を五本、石畳へ。
「英雄像の左!」
ザンバ。
旗竿を五つ。
「旅人宿の屋根下」
カナタ。
白旗で五つ。
「モトノママの前!」
「近い!」
「取りに行く!」
第一歩号。
修理台から船底を五つ。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「船、一!」
「現在者!」
村中へ音が広がる。
セノ。
「機巧小屋!」
フィオ。
「南風路!」
トウヤ。
「帰還門上!」
セルク。
「広場東!」
ハルガ。
「朝火炉!」
オウギ。
「天頂門連絡路!」
マツバ婆。
「薬師渡り!」
旅人宿の紫岸家族。
「食堂!」
去年生まれた子。
声はない。
母が足元を五つ叩く。
「ここ!」
出発の日にいなかった人。
カナタが知らない人。
全員が現在を返す。
モトノママは返事を理解したのではない。古い呼び名へ一致する音だけを拾い、体の戸口を開いた。
『小さな配達待ち』
アカリへ、病床にいたころの呼び方。
「配達人アカリ。十五歳。今、広場」
黄緑旗の現在名が返ると、戸口が一枚外れた。
『停止係』
ルゥへ、村人が昔使った役割名。
「航路機巧師ルゥ。今日は自分の机を作った」
銀の机鱗へ亀裂。
『黒旗』
ザンバは喉を鳴らし、すぐには名を返せない。少年が隣から言う。
「灰旗のザンバ。明日の屋根当番」
本人も続けた。
「ザンバ。今、ここ」
古い野営地の匂いが薄れる。
昔の呼び名を禁止するのではない。現在の名と役目を、その都度上書きせず隣へ置く。獣は一つへそろわない返事を餌にできず、滑らかだった家肌を再びばらばらの鱗へ戻した。
ナギは響路帳へ一つずつ書く。
名前。
場所。
返事。
未確認も。
「旅人宿、客室三!」
「返事なし!」
「消えた?」
「決めない!」
フィオが翼風を客室へ送る。
窓が開く。
眠っていた旅人が顔を出す。
「何事!?」
「現在!」
「ここ!」
返事が増える。
夜色の五番旗が、モトノママの胸で震えた。
昔の村人だけを数えていた白点が、ばらばらに散る。
五つ。
十。
百。
現在の位置へ。
「リラ!」
ナギが無灯泊へ呼ぶ。
遠い夜から五つ。
『標術――《在標》!』
夜色の光が連標網を走る。
帰還広場へ。
モトノママの胸へ。
五番旗が抜けた。
ナギが受け取る。
旗の五点は、一つの星形にならない。
今いる場所を別々に示す。
「《在標》!」
ナギが旗を立てる。
夜色の波が村へ広がった。
現在者。
現在地。
返事あり。
返事なし。
未確認。
違う印。
新しい旅人宿が、昔の家の下から現れる。
機巧小屋の三台の机。
南荷道。
帰還門。
ナギの体が透明から戻る。
「いる!」
カナタが笑う。
「最初から!」
「旗が数えた!」
「返事したから!」
モトノママが口を開く。
『今いる者も、昔の家へ入ればよい』
「入れない!」
アカリが叫ぶ。
「家がない人もいる!」
『同じ故郷を与える』
「勝手に決めない!」
獣の何百本もの脚が、現在者の印へ向く。
一人ずつ、出発の日の役割へ戻そうとする。
カナタは夜色の旗をナギへ任せる。
在標で今いる者を数える役目は、ナギが引き受けた。
アカリは薬箱の紐を締め直し、獣の額を見上げる。
「次は、先頭を一人へ戻さない」
薄青の八番旗。
モトノママの頭。
巨大な一歩の紋。
その下で、英雄像の顔がカナタへ変わっていた。
前だけを見る。
全員を同じ足跡へ導く顔。
「俺じゃない!」
「昔のあんた」とルゥ。
「少し似てる!」
「今も少し!」
「どっちだ!」
アカリが黄緑の旗を上げる。
「先頭、交代」
アカリが一歩目を受け取った。
モトノママの頭へ続く道は、昔の昇枝路だった。
細い。
崩れかけ。
カナタが何度も近道に使った根道。
獣の額にある八番旗まで、最短。
「俺が行く!」
カナタが一歩出る。
アカリが薬箱で腹を止めた。
「先頭」
「アカリ!」
「二歩目」
「俺!」
「分かってるなら後ろ」
「道は俺が知ってる!」
「昔の道」
「近道!」
「今は獣の脚」
根道が動いた。
モトノママの指。
カナタなら前へ飛ぶ。
アカリは止まる。
「現在確認」
「遅い!」
「返事」
根道の向こう。
フィオが翼風を送る。
「右、現在!」
セノ。
「左、昔!」
オウギ。
「中央、未確認!」
アカリは右へ一歩。
カナタが二歩目。
根道が崩れる。
白旗を突く。
「《未踏路》! アカリの足跡へ!」
一歩分の光板。
先ではない。
アカリが踏んだ場所へ二歩目を重ねる。
道が強くなる。
「できた!」
「次も後ろ!」
「分かってる!」
三歩目で横へ出る。
「もう!」
「隣!」
「後ろ!」
一歩戻る。
薄青の八番旗が光る。
モトノママの頭から、巨大なカナタ像が動いた。
『最初の一歩は、英雄が踏む』
「英雄像の話を信じるな!」
本人が叫ぶ。
『皆は、その後ろへ』
村人の足元に、同じ大きな足跡が浮かぶ。
トウヤが最初に引かれる。
「前!」
昔の《昇標》が勝手に動く。
アカリが声を飛ばす。
「トウヤ、次の先頭!」
「俺!?」
「帰還門上の避難!」
「受け取った!」
トウヤは大きな足跡から外れる。
自分の風で、帰還門の人々を現在の階段へ導く。
「次、フィオ!」
「南風路、受け取った!」
翼風で旅人宿の人を運ぶ。
「セノ!」
「機巧小屋!」
留め具を外し、現在の机を安全路へ。
「セルク!」
「広場東!」
名簿を持ち、未確認者を数える。
一人の英雄へ先頭を集めない。
場所ごと。
役目ごと。
先頭を渡す。
薄青の旗が獣の額から抜けた。
遠い歩雲群からメグの声。
『標術――《輪番》!』
八つの足跡が村へ広がる。
一つの順番ではない。
現在地。
行き先。
渡す者。
受け取る返事。
四つを確認するたび、先頭が替わる。
アカリの薄青旗ではない。
それでも、黄緑の宛標が《輪番》を受ける。
「次、カナタ」
アカリが言う。
「先頭!?」
「一歩だけ」
「任せろ!」
「行き先」
「八番旗!」
「受取先」
「俺!」
「違う」
「みんな!」
「曖昧」
「第一歩号の帆柱!」
アカリが頷く。
カナタは白旗を突く。
「《未踏路》! 八番旗から、第一歩号へ!」
一歩分の光板。
薄青旗を引き抜く。
船へ投げる。
ルゥの銀糸が受け取る。
帆柱へ。
「先頭、終了!」
アカリが言う。
「もう!?」
「一歩」
「短い!」
「次」
カナタは二歩目へ戻る。
モトノママの額に亀裂が走った。
英雄像の顔が崩れる。
その下から、何百人もの違う顔。
先頭を一人へ押しつけていた村の願いが、分かれ始めた。
先頭を渡す仕組みが村へ広がると、ザンバが獣の喉を指した。
深緑の旗は、出発の日へ戻る一本道の中にある。
「戻る」
カナタが言う。
「どこへ?」
アカリが確認する。
「間違えた場所」
アステルの道を終える前、カナタは最後の問いを置いた。
「父ちゃん。終わらせていいか」
返ったのは、固定された《たまには帰れ》だった。
許可ではない。拒絶でもない。十二年前の人が、今の選択へ新しい答えを返すことはない。
カナタは白旗の端から手を離し、自分の声で言う。
「行ってきた。ここからは、俺たちが持つ」
記録は同じ言葉を繰り返した。消さない。従わせない。アカリの箱へ移された音は、問いへ答える門ではなく、歩いた人の声として残った。
モトノママの喉には、九つの矢印があった。
全部、後ろへ。
カゲノハ村の起源。
アステルの出発。
カナタの出発。
もっと昔。
変わる前。
変わる前の前。
元へ。
元へ。
どこまでも戻ろうとする。
『帰るとは、最初へ戻ること』
「違う!」
シノの声が連標網から飛ぶ。
『折返すのは、間違えた分かれ道まで!』
「分かれ道はどこ!」
アカリがカナタへ訊く。
カナタは獣を見る。
帰還路へ入ったとき。
父の声を追ったとき。
白旗から金色の一歩が抜けた瞬間。
「父ちゃんの前!」
「何を間違えた?」
「一歩、行こうとした!」
「それだけ?」
カナタの口が止まる。
行こうとした。
父へ。
聞きたかった。
悪いことではない。
間違いは、その願いを村全体の帰還式と同じにしたこと。
自分の返事を、今の村の安全より先に置いたこと。