第258話 第九章「十三か所の崩落」後編

「父ちゃんに、おかえりって言わせようとした」

広場中へ聞こえる声で言う。

「記録だって聞いたのに、今の返事にしたかった」

モトノママの口が笑う。

『息子なら、当然』

「当然でも、俺が選んだ!」

『村も望んだ』

村長が一つ鐘の輪の中で顔を上げる。

何度も同じ杖を上げている。

帰還式を準備した。

アステルの息子へ、昔の村を返したかった。

「儂らもだ!」

現在の声が、輪を破る。

「帰ってくる者へ、変わらない場所を見せれば安心すると思った!」

村長の足元に深緑の矢印。

「間違えた!」

セルク。

「英雄像へ、今の本人を入れなかった!」

ハルガ。

「机を残せば帰れると思った!」

マツバ婆。

「昔の橋を見せたかった!」

それぞれの間違い。

一つへまとめない。

誰か一人の罪にも。

「分かれ道、帰還式の準備!」

アカリが現在図へ印をつける。

白旗を父の道へ重ねると決めた場所。

カナタの一歩が抜ける前。

村の願いが一つの昔へ集まる前。

「深緑!」

カナタが喉へ飛ぶ。

アカリが先頭。

輪番で、トウヤが風。

フィオが道幅。

ルゥが現在糸。

ナギが返事。

ザンバが分岐。

カナタは二歩目から未踏路を出す。

「喉の一歩手前!」

光板。

最後は自分で跳ぶ。

深緑の旗を掴む。

モトノママの牙が閉じる。

牙はすべて《最初へ》の札。

ザンバが《岐点》を置く。

「右!」

「右に昔!」

「左!」

「左も昔!」

「中央!」

「間違えた今!」

カナタは中央へ旗を突く。

「標術――《折返》!」

深緑の光が村全体へ走った。

時間が戻る。

出発の日へではない。

モトノママが一歩目を踏む前。

白旗から金色の一歩が抜けた瞬間。

帰還広場の旗索が、まだ完全にはつながっていない場所。

現在の家々が戻る。

けれど、獣は消えない。

歩いた道も。

傷も。

間違いを認めた声も残る。

「ここ!」

アカリが現在図へ大きな印。

――選び直す場所。

カナタは深緑旗を引き抜く。

九つ目の矢印が、最初ではなく現在へ向いた。

モトノママの喉が裂ける。

中に、アステルの帰還路中核。

父の姿。

合成された《おかえり》

七番目の暮色旗が、その胸へ刺さっていた。

分かれ道まで戻す仕事をカナタへ渡したあと、ザンバは灰旗をアステルの記録へ向けた。

「ここから先は、戻す道ではない。終える道だ」

アステルは、帰還広場の中央に立っていた。

記憶像。

赤い上着。

白い旗。

カナタへ手を伸ばす。

『おかえり』

モトノママが作った言葉。

今度は、カナタの足は動かなかった。

「聞きたい」

正直に言う。

「でも、父ちゃんが今言ったんじゃない」

ナギが黒い鈴を鳴らす。

「記録にない」

白い鈴。

「希望から作られた音」

現在鈴は鳴らない。

アステルはもういない。

返事はできない。

「父ちゃん」

カナタが暮色の七番旗へ手を伸ばすより先に、ザンバの灰旗がその手前へ入った。

「終えるのは俺がやる」

「父ちゃんの道だぞ!」

「だからだ。あいつと道を切った俺が、終わった場所まで見届ける」

ザンバはモトノママの胸から突き出た暮色旗を握る。

「お前は、今の返事をしろ」

モトノママの胸が閉じる。

『終わらせれば、父はいなくなる』

「もういない」

ルゥが言う。

カナタの胸が痛む。

「分かってる!」

『道を終えれば、声も消える』

「記録へ残す!」

『歩けなければ、会えない』

「会った!」

『返事を聞いていない』

「聞いた!」

『偽物と呼んだ』

「偽物じゃない!」

カナタは叫ぶ。

全員が見る。

「俺が聞きたかった声からできてる! 父ちゃんの声も本物! 俺の願いも本物!」

モトノママの口が広がる。

「でも、今の返事じゃない!」

門の口が止まる。

「本物だから、今にしなくていい!」

カナタは、ザンバが支える暮色旗の向こうにいるアステルの記録を見る。

「父ちゃん」

出発の日。

最後に聞いた言葉。

『行ってこい』

これは記録にある。

何度も。

同じ速さ。

同じ笑い方。

「行ってきた!」

カナタが答える。

父が聞くことはない。

それでも、今のカナタが言う。

「世界の果てまで行った!」

「向こうに人がいた!」

「父ちゃんの道も見つけた!」

「帰ってきた!」

アステルの記録が、いつもの動きをする。

笑う。

『行ってこい』

最後まで鳴る。

今度は最初へ戻らない。

ザンバは暮色の旗を父の記録へ向けた。

「ここまでだ、アステル」

「標術――《終標》!」

暮色の七つの灯が光る。

アステルが命を道にした役目。

カナタの出発の日。

繰り返していた《行ってこい》

そこへ《ここまで》を置く。

記録は消えない。

暮色の旗へ入る。

歩ける父の幻から。

終わった道の記録へ。

アステルの姿が薄くなる。

カナタは泣いた。

隠さない。

止めない。

「おかえりって、言ってほしかった!」

今いる全員の前で言う。

アステルの像は答えない。

記録の役目を終えたから。

「でも、それを言うのは父ちゃんじゃなくていい」

ザンバが暮色の旗をモトノママの胸から引き抜く。

モトノママが初めて悲鳴を上げた。

額からアステルの顔が剥がれる。

その下に、門だけが残る。

返事を強制する口。

ザンバは暮色旗をアカリへ投げる。

「記録棚へ」

「受け取った!」

アカリの薬箱へ、父の最後の声が入る。

重くない。

一つの記録。

村全体を支える命ではなく。

歩いた人の名として。

モトノママの背中では、昔の家々がまだ現在を覆っている。

父の道を終えても。

故郷の記憶は残る。

父の記録をアカリの箱へ渡すと、ルゥが銀鋲を一本抜いた。

「次は私の仕事。昔を消さず、今へ渡す」

ルゥが古い机へ触れると、指の痛みが消えた。

代わりに、セノへ渡した銀鋲も、フィオが描いた風路も消えかける。

「壊れない机はいらない」

右手を一度休め、左で一本の鋲を抜く。

「壊れ方が分かって、次の人が直せる机にする」

セノへ向けた継ぎ路と、フィオへ向けた風路を別々に残す。自分の名だけを消さず、二人の名も同じ板へ刻む。

モトノママの机の鱗は砕けず、薄い図面へ変わった。過去の形は失敗箱へ渡され、現在の机へ戻る命令だけを失った。

灰青の四番旗は、モトノママの背中にある。

昔の機巧小屋。

ルゥの机。

その屋根へ刺さっていた。

「私が行く」

ルゥが言う。

「先頭!」とカナタ。

「今は私」

輪番。

ルゥが先頭を受け取る。

アカリが現在図。

カナタが二歩目の未踏路。

ナギが返事。

ザンバが昔と今を分ける。

銀糸を、獣の背へ投げる。

「昔の作業小屋!」

一つ。

「今の機巧小屋!」

二つ。

「つなぐ?」とカナタ。

「同じにしない」

銀糸は二本。

昔の机。

今の三台。

互いを消さず、並べる。

モトノママが吠える。

『正しい形は、一つ』

「正しかった日がある!」

ルゥは答える。

「今も正しいとは限らない!」

銀鋲を屋根へ。

昔の自分が机に座っている。

十五歳。

見習い。

今のルゥを見ない。

「私の来た道」

次に、現在の机。

フィオの図。

セノの留め具。

新しい板。

「私の続き」

灰青の旗を掴む。

「標術――《次稿》!」

波が獣の背中へ広がる。

昔の家々が消えるのではない。

薄い図面へ変わる。

日付。

使った人。

終わった理由。

今の形。

次に決める人。

それぞれの欄を持つ頁。

古い薬師橋。

出発日の広場。

小さな家。

ルゥの机。

アカリの病床。

全部、歩ける現在から記録へ移る。

「昔の家が!」

カナタが手を伸ばす。

「消えてない!」

ルゥが一頁を投げる。

カナタが受け取る。

自分の家。

身長傷。

父の食卓。

記録として見える。

触れられない。

戻れない。

「これでいい?」

ルゥが訊く。

カナタは頁を見る。

寂しい。

それでも、旅人宿を潰して家へ戻すよりいい。

「残す!」

「受け取った」

灰青旗が抜ける。

昔の家々は、空へ何百枚もの頁として浮かんだ。

今の村が下から現れる。

モトノママの背中が軽くなる。

けれど、頁は全部一つの広場へ集められている。

カゲノハ村だけ。

トマリギ島も。

三番港も。

旅人たちの故郷も。

獣は、違う帰る場所を一つへまとめようとしていた。

ルゥが昔の村を頁へ渡すあいだ、ナギは青い鈴を両手で守っていた。

銅色の旗が、何本もの道を同じ口へ結ぼうとする。

遠いトマリギ島の始標旗まで、カゲノハ村へ傾き始めた。

「故郷を一つへ潰さない」

ナギが響路台を叩く。

モトノママの門の口から、何本もの帰路が伸びた。

トマリギ島。

三番港。

ミナモ。

無灯泊。

迎え岸。

双灯港アケヨイ。

歩雲群。

星脈市。

逆雨原。

全部をカゲノハ村へ引く。

『帰る場所は、一つでよい』

「よくない!」

ナギが響路台へ青い鈴を叩く。

「トマリギ島、現在!」

遠い始標塔。

母イオラ。

『ここ!』

「三番港!」

『ここ!』

ミオ。

「ミナモ!」